本文へジャンプ

【規格大量生産が駆逐した「高級住宅」個性的金具】


現代では住宅の「様式」は自由度が高まって、
用とデザインは一致していてシンプルであることが一般的。
いまは普通のこういうことは、しかし昔から一般的であったワケではない。
江戸期までの住宅というのは、身分制社会の制約から自由ではなかった。
門の作り方とか、建築表現についての制約が設けられていた。
建築自体の表面デザインについては、変える必要性を社会全体が感じていなかった。
建築はながく使っていく公共財として考えられて、
そういう部分では合理的な屋根形状、外観で建てられ続けた。
大切な資源を使って建てる以上、長期にわたって資産性が担保されることが重要で
雨仕舞とか、耐久性を第一に考えて安定的なデザインが志向されていた。

そういうなかにあって、比較的自由であった武家もしくは、
大庄屋といった身分制度上一番上位の高級住宅では、
写真のような建築金物、それも表に現れる金物についてデザインが凝らされた。
江戸初期の威信表現建築である日光東照宮の造営などでは、
左甚五郎などのような存在によって建具表現のデザイン性が高められていった。
いわば職人的な手工業の部分が発達したのではないかと思います。
写真は釘隠しや障子の取っ手の金物です。
クギを隠すというメンタリティも今の時代としてはよくわからない(笑)。
床材などでクギが浮いてきて足に引っかかるという機能的な不具合はわかるけれど、
こういった釘隠しは、やはりそうではなく工芸品的嗜好性。
この播州の大庄屋・三木家住宅ではデザインとして「もも」がテーマになっている。
2枚目の写真でもどうやらカタチとして「もも」が意図されているようです。
まぁ身分制社会で住宅建築は「様式」優先だったので、
嗜好表現はこういった部分に集中していったものでしょうか。
現代ハウスメーカー的家づくりでは「壁紙選択」にユーザー意識を向かわせるようですが、
江戸期ではこういった部分にだけ「個性表現」を集約したのか。
身分制度社会としての矮小化されたパーソナライズだったのでしょう。
しかしこういう職人的逸品生産が担っていた建築領域は、
現代ではほとんど顧慮されなくなってきた。
というか、こういったパーツは規格大量生産社会がもっとも得意な部分であり、
どんなに精緻なデザイン表現を作り込んだとしても、
どうせ鋳型で流し込むだけでしょうと、ユーザーからも見限られてしまう。
ものが乏しかった時代と、大量生産社会との認識の違いが
こういった嗜好性に明確に現れていると感じていました。

さて本日は日本の衆議院選挙公示と北朝鮮の労働党創立記念日。
ここ数日の狂想曲がどんな選挙模様になっていくか、注目ですね。
北朝鮮は、またなにかやらかしませんように。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.